人物像
「酒仙投手」という愛称の由来と、その裏側
当時、チームの軸になる投手――いまでいうエース――のことを「主戦投手(しゅせんとうしゅ)」と呼んだ。西村はタイガースの主戦投手、つまりエースだった。その言葉をもじって、野球評論家の大和球士がつけた愛称が「酒仙投手(しゅせんとうしゅ)」だった。酒仙とは、俗世のことを離れて酒を楽しむ人をいう昔の言葉で、酒好きで豪快な人柄をおもしろがった、この時代らしい言葉遊びである。
愛称のほうが有名になったが、同時代の人が書き残しているのは、その裏側である。誰も来ていない早朝の甲子園球場に来て、一人で走り込む姿を、グラウンドキーパーが見ていた。前の晩に飲んだ日ほど、それを欠かさなかったという。チームメイトの若林忠志は「西村ほど練習をした投手はいない」と語っている。

投球
絶妙な制球
石本秀一監督は「白球投げればそのうち九十球はねらったところに投げられた」と語った。女房役のカイザー田中義雄は、西村の外角低めだけはミットを動かす必要がなかったという。
鋭いドロップ
川上哲治は「スタルヒンのドロップはドロンとした感じ。西村さんのドロップは違った。鋭い角度でガクッと落ちる」と語っている。
水平に曲がる球
直球と同じ速さで水平に曲がる球を投げたと伝わる。今でいうスライダーにあたり、戦前にこの球を投げていた投手として記録されている。
打者との駆け引き
打つ気がないと読めば直球でストライクを取り、打ち気にはやる打者にはわざとボールを続けて気勢をそいだ。当時の新聞は「変化自在の巧投」と評した。
体格
身長五尺五寸(約167cm)、体重十七貫(約64kg)。大男ではなかったが、「プレートに立つと大きく見えた」と評された。
証言
タイガースの三投手、西村、若林、御園生は、白球投げればそのうち九十球はねらったところに投げられた。
石本秀一(大阪タイガース監督)
西村は飲ん兵エの半面ばかり吹聴されているが、酒ばかりあふって、ああいうピッチングができる道理はない。その半面、西村ほど練習をした投手はいない。投手たちの倍も三倍も、練習をした。
若林忠志(チームメイト)
体は小さかったけどスピードはありましたよ。バッターのところでグーンとのびるような速い球でした。私は遅いボールの方が好きでしたからね、西村さんはいやでした。タイガースには若林、御園生といたけれど、なんといってもエースは西村さんでした。
川上哲治(巨人)
投手としてあの位うま味のある投手はなかった。人を人と思わぬ試合度胸、それに速球よしカーブよし、緩球よし、無類のコントロール。「百戦練磨」という言葉がピタリとあてはまるプロらしい投手だった。
竹中半平(評論家)
西村こそプロ野球二十三年史を通じて最高の名投手。
苅田久徳(セネタース)
甲子園近くの酒場で、西村は「ぼくも飲んでますが、ご心配りません。大丈夫です、いくら酔っても、投げることはきちんと投げますから」と言った。フラフラしながら、気持だけはしゃんとしているのだなと思った。西村という男は決して憎めない不思議な快男児であった。
鈴木龍二(当時の連盟関係者)
西村先発が発表されると、ぼくの肌に恐怖の鳥肌が立った。
寺内大吉(作家・当時は巨人ファン)
曲がったことは嫌いな性分でしたから。自分から仕掛けるようなことはなかったですよ。悪いことしとるのを見たら黙っとらん。
西村久生(弟)
逸話
試合後の楽しみ
当時、試合に勝つと球団から賞金が出た。巨人・阪急に勝てば二十円、ほかのチームなら十円。西村は宿に戻って風呂に入ると、その金を懐に出かけていった。宿の近くのおでん屋か、配当の少ない日は屋台で、使い切って帰るのが習慣だったという。日本酒は銚子(徳利)一本が三十銭ほどの時代である。この人柄から「酒仙投手」の愛称が生まれた。
誰もいない甲子園で
早朝、まだ選手が誰もいない甲子園球場に来て、一人で走り込んでいるのをグラウンドキーパーが見ていた。前夜に酒を飲んだ日ほど、この走り込みを欠かさなかったという。
十七歳の言葉
宇治山田中学五年の夏、甲子園を逃した帰りの汽車で、野球部のOBが失策をした内野手を執拗に責めた。たまりかねた西村は「やめてくださいッ」「エラーは、しようと思てするもんやない。なんでそんなことするんですかッ」と叫んで止めた。
監督に
巨人の中島治康には外角のカーブ以外投げるなと指示されていたが、内角へ投げて打たれた。ベンチで叱られると「ほっとけ、文句があるならお前が投げろ」と言って、次の守備に出なかった。
神酒のおかわり
昭和13年2月11日、チームの結成記念日に全員で広田神社に参拝した。小雪の降る寒い日で、神酒がふるまわれると、西村はなみなみと注いでほしいと注文し、飲んだあとまた列にもぐり込んだ。神官が「お代りのほしい人はもういませんか」と言うと、てれもせず「松木さんお代りはどうですか」と主将を引っぱった。参拝で神酒を三杯飲んだ記録は、広田神社はじまって以来だったという。
弟を守る
弟の久生が宇治山田商業の野球部から強引な勧誘を受け、人気のない場所へ呼び出された。相談を受けた西村は「よし、わかった」とだけ答えてその場へ行き、「お前ら、いやや言うとる者になにする気や」と言って弟を連れ帰った。以後、勧誘はやんだ。弟の久生は、兄について「自分から仕掛けるようなことはなかった。でも悪いことしとるのを見たら黙っとらん人でした」と語っている。
最高殊勲選手を逃して
二年続けてチームを優勝させ、二季連続で防御率一位になりながら、最高殊勲選手(現在のMVP)には選ばれなかった。周囲が悔しがるなか、本人は意に介さず「おれは巨人に勝ったらそれでいい」と嘯いていたという。
退団の決意
「まだやれないことはないが、腕が駄目になってしまってからやめるのはいやだ。人に惜しまれる今のうちにプロ野球をやめたい」。家族はそう聞いている。
娘に遺した言葉
長女・幸子は、満州に渡ったとき二歳、父が出征したとき六歳だった。大連で暮らした数年の記憶が残っている。
弱い者いじめはするんじゃない。自分より弱い子に勝って何になる。弱い子は助けてやって、強い子に勝つんだ。強い子にびくびくして、いいなりになるような情ない子になってはいけない。
娘に 長女・幸子の記憶
幸子、あれは釘だったんだよ。今、日本は鉄が足りなくて困っているんだ。だからああして釘一本でも大事にしてるんだよ。
大連の道で 人力車の車夫が道で釘を拾ったとき
すぐ帰ってくるから、ビールをたくさん集めておけ。
出征のとき 長女・幸子の記憶