出征と戦死
記録1939年、肩の不調がつづいた西村は、年末に契約が切れてタイガースを退団した。29歳だった。家族は、本人がこう言っていたと伝えている。
まだやれないことはないが、腕が駄目になってしまってからやめるのはいやだ。人に惜しまれる今のうちにプロ野球をやめたい。
退団のとき
記録1940年(昭和15)春、新京の満州電電に招かれて満州へ渡る。妻の末子、長女・幸子、次女・澄子、そして父・才吉との五人だった。才吉は満州行きに強く反対したが、最後は折れて同行している。
記録約一年後、次女・澄子が重い病気にかかったことを機に、少しでも暖かい土地をと大連へ移り、太陽バルブに入社した。1941年12月、太平洋戦争が始まる。末子の生まれ育ったハワイが、最初の攻撃の地だった。大連で三女・洋子が生まれた。

記録1944年(昭和19)3月、大連で召集令状を受け取った。33歳だった。このとき末子は四人目の子を身ごもっていた。生まれた四女は栄子と名づけられたが、父は娘の顔を知らない。
伝聞出征の朝のことを、長女・幸子はこう語っている。
すぐ帰ってくるから、ビールをたくさん集めておけ。
出征のとき 長女・幸子の記憶
要確認この別れの場面は、語られた時期によって細部が異なります。資料室を参照してください。
記録その年の秋、台湾にいることが知人を通じて伝わった。12月29日付で、フィリピンに着いたことを知らせる本人の便りが届く。これが家族が受け取った最後の手紙となった。
記録1945年(昭和20)4月3日、フィリピン・ルソン島南部のバタンガスで戦死。満34歳5か月だった。同じ伊勢に生まれた沢村栄治は、その四か月前の1944年12月2日、台湾沖で乗っていた輸送船が沈み、二十七歳で亡くなっている。
記録1945年7月28日深夜の伊勢空襲で、大世古町の家、通学した厚生小学校、宇治山田中学校は、すべて焼失した。のちに野球殿堂入りが決まり、博物館から遺品の寄贈を求められたとき、弟の久生は応じることができなかった。家といっしょに、すべて焼けていた。
家族のその後
記録終戦時、家族は大連にいた。末子は日本の着物を洋服に仕立て直して売り、七歳の幸子は道に茣蓙を敷いて商いを手伝った。引き揚げが始まったのは1947年1月。熊本を経て伊勢へ移り、市役所で戦死の公報――国から遺族に届く公式の通知――を受け取った。渡された白木の箱には、「戦死 西村幸生」と書いた紙が一枚入っているだけだった。
記録1948年4月30日、末子と四人の娘は横浜港からハワイへ渡った。ハワイ行きを勧め、横浜まで見送った父・才吉は、その一か月後、伊勢で急逝した。
